自信と謙虚さ、そして確信

最近、ある打ち合わせにおいて「自信の無さ」についてすごく考えた。
僕は人から自信家だと言われることが多いが、セルフイメージはそうでもない。
むしろ確たる自信を持てる根拠を持たない、なんとも頼りない能力しかないように感じることが良くある。
お世辞にも器がでかいなんて言えないし。

特定の分野において、すばらしくたくさんの実績、経験、知識を持っているとか、
ある専門的技術を使って飛びぬけて美しく、迅速に仕事がこなせるとか、
そういうスキルを持った人には憧れと嫉妬が入り混じった気持ちを持っていると思う。

あるいは、大きな器でピンチの時でも動じる様子を見せず、周囲を和ませる余裕を持つようなリーダーや、どんな困難にも強烈なバイタリティで望んでいけるリーダーを見ると、自分にはあそこまでのことは到底出来ないんじゃないかと思ってしまう。

要は日々、「こんなことじゃだめだ、こんなことじゃだめだ」と思いながら暮らしているのである。
だから「自信家だ」的なことを言われると、何をトンチンカンなことを!と思いつつも、「まぁ自信なさげに思われるよりいいか」等と納得していた。

ただ、先日ある打ち合わせをしていた時、本当に自信が無いとは、すごい人を相手に真剣に嫉妬できたり、落胆できたり出来ないことなのかなと感じる機会があった。

例えば高校球児が、イチローのすごさを目の当たりにした時に嫉妬できるか、自分と無関係だからただ感心しちゃうとか、どうせ自分には出来ないからそうなりたいと思ってじたばたするなんてかっこ悪くて出来ないとかそう思っちゃうことの違いのようなもの。

当たり前だが、嫉妬したり、比較して自分にふがいなさを感じると言うのは、一方で「自分もやりようによってはそうなれるはずなのに」という強烈な自負心があるからで、それこそが「自信」の正体なのだとその時にすごく思ったのだった。

自信があるから悔しい、自信があるから自分がふがいなく思える、自信があるから「こんな自分じゃまだまだだめだ」と思える。自信は表に出る形としては(他人にどう見えるか派別として)実は「自己否定」に繋がるような気がする。

そうやって「自己否定」して、何とか追いつけ、追い越せでがんばって、実績を積み上げた時、ありきたりだが「自信」が「確信」に変わるんだろう。つまり自分ではやれば出来ると思っていたことが、成果を出して公に証明できたといった感じ。

僕にはまだほとんど「確信」めいたものは無くて、ほしいのは主に確信のほうなのだと。ただ最低限「自信」の方は無いと話しにならないが、それはわりとあるのかなと。

そんな風に思った。

最低限「自信」が無いと、やったことが無いこと、未知の事、そこに到達するイメージがもてないことにチャレンジすることは出来ない。

うまくまとまらないが、「自信」と「謙虚さ」そして「確信」ということについて今もぐるぐると考えている。