取締役会?

昨日は新サービスのロゴデザインや、サイトデザインについての簡単な打合せをする為、国立の妹夫婦宅へ。

当社は僕が代表取締役、妹が取締役副社長、義弟が非常勤の取締役兼クリエイティブディレクターという、同族会社がきわまったような取締役の構成なのだが、5年位前に有限会社ベッドタウンプロダクションズという飲食店のプロデュースや、実店舗経営をしようと思って立ち上げた会社の時も、同様の役員構成だったのだ。

彼らとはそれ以前にインディーズ音楽レーベルの真似事のようなことや、デザイン事務所の真似事のようなことをしていた時もずっと一緒にやってきて、20代後半から今に至るまでの約10年間、自分達で何かできないかとずっと一緒にあるいは個別にジタバタとしてきている。

一緒に何かをやり始めた頃、僕は24歳のフリーター、他の二人も20そこそこのフリーターという状態でありました。やりたくないことはやりたくないし、やりたいことが何なのか良くわからんし、かといってたいした動機付けもないままに、努力したり熱くなったりなんてできっこない、そんなモラトリアムでふがいない時代でした。

僕らには何もなかったし、むしろ自分達の居場所は社会のどこにもないように感じていた頃でした。
でも、それぞれに良くがんばって、何とか今まで生き残ってくることができました。

昨日はそんな僕らの10年を振り返って、ぜんぜん変っていない根っこの部分と、ずいぶん変った自分達のキャパシティのことを色々と話しました。

その中でみんなで納得したのは
結果が出る、成果が得られる、というのは確かに重要だし、嬉しいことだけれど、何よりも「こうしたい」「こうなりたい」と思ったときに、いつでもそういう思いにまっすぐに向かっていける自分であり続けられているということが結局死んでしまう時に自分の人生を振り返ってみたときには一番の満足要因なんじゃないかということ。

「こうしたい」とか「こうなりたい」と思っても、実際それにまっすぐ向かう為には様々なリスクや犠牲が伴うわけで、「そうはいってもさ」等といいながら、今をやり過ごし続けるというのがメジャーなスタイルだと思う。
もちろん今の持ち物が既に価値あるもので、守るに値するものであるならば、それもあながち悪い選択じゃないのだろう。

でも僕らはどうせ守るべきたいしたものを享受できているわけではない。何も持っていないに等しいのだ。
だったらせめて「こうしたい」「こうなりたい」と思ったことにまっすぐにぶつかっていける「すがすがしさ」のようなものだけは、死守していきたいと思う。「案ずるよりも生むが安し」の精神で。

まぁ、これはあくまで34歳の今の時点の考えだから、10年後どうなっているか??わからないけど、10年前から変らないものは先の10年でも変りたくても中々変われないような気がする。